三輪作曲家の個展2011「三輪眞弘」@サントリーホール

クラシック音楽の殿堂サントリーホールにて、尊敬する三輪眞弘さんの個展。

パティオではタン・ドゥンを招いたコンサートのデモンストレーションが(^_^;)。。


カリスマは、「自分のやりたいこと」よりも、皆に期待されることをやんなきゃいけないんだにゃ。。

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ホールに滑り込み。中ザワヒデキさんとのプレトークが始まってました。。


演奏曲目

村松ギヤ・エンジンによるボレロ(2003)


○愛の賛歌―ガムランアンサンブルのための(2007)


○「永遠の光・・」“Lux aeterna luceat eis, Machina”
オーケストラとCDプレーヤーのための(2011)
サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演



出演 指揮:野平一郎

管弦楽東京都交響楽団

ガムランアンサンブル:マルガ・サリ


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さて、極私的(^_^;)感想!!!

1曲目でいきなり泣けた。なぜなら、3曲中もっとも人間の技能やコントロールというものが入り込む隙がなかったから。人間の作為という余計なものを感じさせないようにできていたというか。。。

前半はぼーっとして聞いていたものの、途中から突如脳が覚醒、後半になればなるほど頭がさえてきて、美しい架空の民俗芸能の映像が浮かんできた。。。

弦は八分の十七拍子?の「松村ギヤ」(^_^;)に沿って上向グリッサンドと下降グリッサンドを三分の一音ずつずらしながら永遠繰り返すので、途中譜面上でどこを弾いてるかわからなくなって「ここはどこ?私は誰?」なメンバーもいたようだ。

それがかえってよかったのではないか???

つまり、民俗芸能は、村の人々が古来から伝わってきた「型」の意味を深く問うことなく「なぞる」ことで成立しているのだが、そういう意味で、3曲目のように、二度と同じ音型が出てこないような超絶技巧の難しい譜面を正確に弾きこなす「人の技」が介在する余地が薄いこの曲は、司祭としての指揮者やカスタネット&タンバリンで鳴らされる「松村ギヤ」のパルス(人と神をつなぐ神ががりの手立て)に「操られている」感が「民俗芸能的」であったというか。。。

しかも、弦パートでは、上向と下降運動という「手の運動」の繰り返し、つまり「身体性」という「伝統の本質」が遂行されていた。これも多分に「民俗芸能的」でありました。

デジタルなプログラミングを人力アナログでやろうとする「いかがわしさ」もステキ。

あと、時折挿入されたマーチングドラムとトランペットは、「民族の過酷な歴史」を物語っていたと思われます。

最後のほうで風が吹いてきて、部族が一人残らず死に絶えたあとに、松村ギヤが刻んでいたパルスだけ残り、最後はそのパルス音もなくなり、指揮者の手でパルスのタイミングだけが何度か繰り返され、儀式は静かに幕を閉じたのでした。。

曲が終わったあとの静寂と余韻がまた格別で、さらに涙が(T_T)。。。

見事に「妄想」が掻き立てられる曲です。「架空のユートピアは存在し得た」、というはかないロマンをそこはかとなく感じる〜\(◎o◎)/!

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2曲目のガムラン曲は、「あ、まんなか中川真先生だ〜!」とか、ダンスの動きや衣装のデザイン、演奏家のたたずまいや演奏技術、「わざと」仕組まれたであろう「ベタベタな歌詞」などに気を取られてしまい、集中して聴けなかった。。もう2サイクルくらい長く演奏していたら、それも気にならなくなっていたと思われるので残念〜(~_~;)。



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3曲目、3.11以後封印が解かれた「中部電力宣言」に即し、「新調性主義」で書かれた初演曲。

前半は、松村ギヤ的ポリリズムマラカスのリズムオスティナートに乗って、おなじみフォルマント兄弟さんが作り出した架空の民謡歌手「高音キン」の人工音声、架空のオーケストラのサンプリング音、鶏小屋のサウンドスケープを元にした音源?が、舞台後方に置かれたCDラジカセから鳴らされる。オケはパーカッション以外は音を出さない。

後半からマジックのようにその架空のオケ音がリアルオーケストラの音に取って変わり、弦パートは、「コンピュータ・アルゴリズムによって生成された17,984個の十六分音符からなる」「決して繰り返すことなく、また休むことのない連続した単旋律」を、12のパートで分担しながら、ピッツィカートで合奏する。

高音キンのすっとんきょうな架空民謡が縦横無尽に歌ってるだけでもおかしいのに、ヴァイオリンパートのビジュアルは、みな牧伸二の「ウクレレ漫談」状態(^_^;)。。しかし、その実情は、同じ音型がひとつとしてなく、あちこち休符で歯抜け状態、リズムも複雑に書かれた譜面を弾くのにオケ団員はひたすら気が抜けない「冷や汗」状態。。持続音とピッツィカートアンサンブルのバランスもよく、なかなか美しいのだが、音型が変化し続けているので聴いていてちっとも落ち着かないし、パート間の受け渡しもいかにも大変そうでハラハラ。。

CDから流される架空オケのほうがもちろん精度は完璧だが、やはり人力で演奏してるほうが当然「儀式」として圧倒的に成り立っている。コンマスさんは、最も高価であろう楽器で、もっとも美しい音色のピッツィカート音を響かせ、野平さんは、牧師さんのようなたたずまいで、ひたすらクールに指揮棒を振り続け、パーカッションパートはひたすら苦行に耐え。。。


そして、、、マリンバの超絶ソロが残り、すべての音型が遂行されたのち、最後にはポリリズムアフリカンダンスの現地録音?(もしかしてこれはアフリカの葬式の音源では!!??)がCDから流され。。。(それにしても鶏小屋の音はいったいどこに??)


この曲も最後にじわ〜(T_T)っ。。神が死んだあと、神の代わりに人が信じている「科学」と実働する「機械」(技術)。いまや自ら作り出した「究極の技術」としての原子力発電により、人は破滅に向かっているのだが、それは自業自得。もっとも弔われるべき対象は、震災や伝染病などで大量虐殺されたペットや牛、豚、鶏たちである、、というこの上もなく皮肉で自嘲的なレクイエム。


調性があるようでないような、それでいて決して12音技法のような「しかつめらしさ」はまったくない(十七音平均律アルゴリズムを十二音平均律に再マッピングしているそうだ)。オーケストラという技能集団による人海戦術、楽譜という優れた制度を使えば、コンピューターのアルゴリズムで作られたひどく複雑な音楽でも演奏できてしまう人知や人間の身体性の可能性を感じさせる(再演したらもちっと余裕のはず)、レクイエムというにはあまりに明るい曲なのだが。。


最後のほうのマリンバのパッセージが見事に決まり、曲は終息するのだが、この「プログラミングを完遂!!」という感覚が落とし穴。。

「技術」の使い道を誤り、神の光のエネルギーに代わって造り出した「永遠の光」によって、「人類は自らを確実に破滅に導く」という恐ろしくも愚かなシナリオが炙り出される。。救いのない、というか無力感・厭世観に満ちた曲だ。。。。。



美しかった。

「破滅」もまた美しきかな。。